諦めて頑張る

先日、印刷機を売る会社の採用試験を落ちあと、今度はコーラを売る会社の採用試験に落ちた。私はコーラを売りたいと考えていたのだが、今回は初めの書類選考の段階で落ちた。会社は私の経歴を見て、この男では到底コーラを売る事はままならず、と言う結論を下した訳である。
上手くいかないものである。こう何度も不合格の烙印を押され続けると、いい加減、心が傷付く。
高望みをしているつもりは無いのだ。私はご存知の通り無知、無資格の33歳。それが分もわきまえず、例えばグーグルとかアマゾンみたいな一流企業に、ハルヤマの「二着目無料!」で購入したスーツを着用し、募集も無いのに、勇んで、勝手に人事課に乗り込んだ訳ではない。そんな事しても、恐らく人事課に行く前に警備員に止められるか、運が良ければ、その会社のロゴが入ったボールペンや文鎮とかを貰って、穏便に帰されるかである。
私が応募をし続けてたのは、現在、職業安定所に募集をかけている、いわゆる中小企業ばかりである。求人をかけているという事は、その会社が人が足らずに困っているか、足りなくなる予定か、どちらかの筈で、そこに自分が働きたいと希望している。僕もよせて、と言っている。
ある友達が、家で大富豪をして遊ぶつもりが、今のところ四人しかいないので、あと一人誰か探しているとする。トランプの大富豪という遊びは、大富豪、富豪、平民、貧民、ど貧民と云う五つの身分を揃えた方が、四人でやるよりも断然面白い。なので「僕が行くよ」と言うと「やっぱり四人でいい」なんて断られる。何でなのかを問いただすと、さっきはそんな事言ってなかったのに「やっぱりその後、ドンジャラとかもやるかわからんし」などと、話が変わってたりする。こんな具合なのである。

私がこれまで受けた会社の求人票はみな、年齢「不問」、経験「不問」、必要な資格等「不問」とあった。では、一体私は何を問われたのか。
いっそ、自分がチンパンジーである、と云うのであれば納得がゆく。なぜなら「求人」と云う事は、「求めているのは人間ですよ」と云う意味なのだから。私は、実は自分自身を人間と思い込んいるだけで、他人から見ればどう見てもお猿なのに、周りが優しいから黙ってくれてただけ、と云うのなら諦めもつく。そう言えば、この前に受けた印刷機販売会社の採用試験では、面接の翌日に、今度は学力審査も行われたのだが、その内容というものが、例えば3、6、1、5...などと並べられた数字の隣同士を足し算せよ、とか、この見本と同じ図形を右の図形群の中から探せ、とかのような、おおよそ30を過ぎた大人に解かせるような問題では無く、まるで、類人猿の知能を測っているような、余りに容易過ぎるものばかりだった事を、思い出した。
ああ、そういう事だったのだ。つまり、コーラ販売会社に送った履歴書も、そこに貼られた私の写真が、お猿がスーツを着ているようにでも見えたのだろう。
それでも、私は、自身を人間である、という事を信じて疑う事は無いが、周りからはお猿にしか見えないと言うのならそれでいい。そもそも万物の霊長などと称して偉そうにはしているが、人間と猿の間に、それ程の大差など無い。せいぜい自然を破壊するか、しないか程度の差だ。
こう開き直ってしまえば、しめたものである。私は、分をわきまえていると言いながらも、腹の中ではまだ残っていた妙なプライドがあった。だがそれは、全て消え失せた。
そう思うようになると、とりあえず糊口を凌いでいける事は決まった。
今年の私の抱負は、レッツ、チャレンジである。