井伏鱒二「多甚古村」・解説

井伏鱒二の作品に「多甚古村」と云う小説がある。
南国海辺の半農半漁村、多甚古村に配属された巡査の付ける在駐日記の形で書かれた小説で、村のちょっとした事件や騒動、暮らしが、やや固いが人情もある甲田巡査の人柄を通して描かれており、とても楽しく読んだ。
この作品には元がある。それは昭和初期、徳島の旧・沖洲村、現在の徳島市沖洲地区に2年駐在した巡査の日記を題材に書かれたのだそうで、この小説は発表以来人気となり、当時の警察内でも、巡査のあるべき模範として読まれたりしたようである。

私はその沖洲地区の生まれでも育ちでも無いが、それでも自分とは多少、縁のある場所だったりする。
まず高校がその近くにあった事、それと宅配ピザのバイトを4年間していた頃に、その店の配達エリアであった事、更にその後就いた前の会社でも6年間、ずっとその地区も担当で、日々走り回る事になり、相当に細かい所まで地理が詳しくなったのである。
そんな限定した地域の事を言われても、ピンとこないのが通常だろうから、少し沖洲地区がどのような所か説明してすると、一言で済ませば、葱畑の町である。
ピザの宅配アルバイト時代には配達に苦労をした。
例えば、この地区の住民からピザの注文があった場合、まず沖洲橋を渡って最初の葱畑を目印に左折、そのまま葱畑に囲まれた農道を走り、3つ目と4つ目の葱畑の間を右折、するとやがて左手、縦長の葱畑と横長の葱畑の間に家が見えるので、そこがお届け先の、葱農家を営む根岸さん宅、もちろんご注文の品は、当店オリジナルのネギ塩カルビ・ピザ、と云った具合で、配達先を探すのが大変だったのである。

そんな訳で、私はこの多甚古村を、現在の沖洲地区と比較しながら読んでいたのだが、どうも小説の舞台と実際の地形が一致しない。
勿論、当時から町も随分変わってるだろうし、実在の日記がモデルとは云え、フィクションの部分は多いだろうが、それでも違い過ぎる。
あまりに納得いかなくなり、県立図書館の郷土資料コーナーで「沖洲町史」と云う本を見つけ、その中にあった、沖洲村時代の古い地図を確認してみた。すると、現在の沖洲地区の前身、沖洲村は、今よりずっと広く、現在は別の地区名に分かれている隣町なんかも、かなり広い範囲が当時の沖洲村に含まれていた事が判明。
逆に、沖洲地区の西に隣接して金沢地区と云う場所があるのだが、そこは何故か、吉野川を挟んだ北岸の川内村(現・川内町)に含まれていたのが何とも不思議である。
とにかくこれで、より小説の場面を想像し易くなり、地形に関しても、随分自分なりに納得する事ができた。

そしてこの小説の主人公、甲田巡査の勤務する駐在所のあった場所も判った。
その場所には現在、K'sデンキ徳島本店が、当時の面影を完膚なきまでに叩き潰し、私達の便利な暮らしの為、あらゆる電気製品に対し、その場でズバッと現金値引を行っている。 解説・大久保 篤(無職業)