nevertheless I’m still alive

hushpuppyのドラムボーカルであり、ライブハウスCROWBARのオーナーであったタロウさんが亡くなって、もう1年が経った。

去年の夏から半年の間に、僕の両親も相次いで死んでしまっていたので、ただでさえ記憶力が無い自分は、それぞれの命日がどうも曖昧になってしまっているのだが、タロウさんの命日だけは、周囲がSNSで発信していたり、追悼の企画を開くなどをしてくれているお陰で、はっきり11月6日だと確認できる。

 

hushpuppyを初めて観たのは、僕が17の時で、MCで「まだ3曲しかないが出させてもらった」というような事を言っていたので、多分彼らの初ライブだったのではないかと思う。現在スタジオトリゴロのある場所にあったJITTERBUG(現GRINDHOUSE)というライブハウスがあり、そこでのライブだったと思うが、僕は客としてその場にいたのか、当時やっていたバンドでの共演だったのか、それは覚えていない。その頃も何度か共演はしているのだが、当時やっていたバンドは自分がフロントとしてはやっておらず、打ち上げなどにも僕は出ずにすぐ帰っていた為、タロウさんらhushpuppyのメンバーとの面識はほぼなかった。オリジナルのベースであるアゴさんは、自分の高校の先輩だったらしいのだが、やはり一度も話をした事も無い。

僕は高校を卒業してから2年半徳島を離れるのだが、暇になったのでまたバンドでもやろうと地元に帰ってきた。僕の高校時代に活動していたバンドの殆どは解散していたが、唯一hushpuppyだけが勢力的に活動を続けていた。傑作2nd「sense of incompatibility」が発表される少し前、唯一無二のメロディを鳴らしていた。

タロウさんらとちゃんと面識ができたのはその頃からで、僕が徳島に戻り最初に組んだバンドをhushの企画に誘ってもらった時からである。その時の打ち上げで、「向いている方向が同じと感じたから企画に誘った」という事を言ってもらったのが、タロウさんと話した一番古い記憶で、僕が21、タロウさんは26か7歳だっただろう。徳島のような地方では若いパンクバンドはどうしても数が少ないため、目につきやすかったのだと思う。

しかしながらこのバンドは日本語詞のロックンロールパンクで、代表曲になるものがラブソングでもあった為か、当時は所謂「青春パンク」と呼ばれる事もあった日本語詞パンク?バンドの全盛期で、ライブハウスからのブッキングも、その類のバンドのサポート的なライブが多くなり、結局バンドはhushらの向く方向とは違う方向を向いて行く事となっていった。

ただその後も、タロウさんは僕の音楽の趣向を見抜いてか、企画の際には必ず電話をくれた。僕は一人ライブハウスに出かけ、そこでI excuse 、minority blues band、U SPAN Dなどを知った(mbbは高校時代に観たMOGA THE ¥5の共演で観ている可能性もあるのだが、そのバンドが本当にmbbだったかは本人らに確認はとっていない)。

それらとは別に、同時期、岡山のlive clean stay youngと知り合い、自分のバンドの企画で呼ぶ事になった。そこでhushpuppyにも出演してもらいたくてタロウさんに電話をしたのだが、何日かの返答待ちの後、「僕らが出ても客が呼べんのよ」と断られてしまった。つまりそれは、その時の自分達のバンドとhushの周辺では、客層も含め、いわゆる「シーン」が違ってしまっている、という事を意味しているのである。

これは本当に悔しかった。そのバンドを辞めて、今度は自分が中心となるthirsty chords(当初は別名)を新しく始めたのは、この件も大きかったように思う。

僕のこれまでのバンド活動において最も影響が大きいのは、もの凄く大まかに言ってしまえば、ブルーハーツとhushpuppyである。

特に甲本ヒロトへの憧れは、小学校で初めて「人にやさしく」を聴いた時からずっと抱き続けており、現行のバンドこそ追い続けはしないでも、今でもネットやテレビなどで甲本ヒロトの情報が出てるのを見ると、それだけで鳥肌が立つ。

中学生の時、HIGH-LOWSがアルバム「ロブスター」のツアーで高知に来たのを、JRを乗り継ぎ4時間かけて観に行った際、初めて自分の目で見たヒロトの姿に、まるで架空の人物がこの世の現れたような感激を受けた。

対してhushpuppyのタロウさんは、ヒロトのような、よく云われる「オーラ」のようなものは一切なかった。自分の経営するライブハウスCROWBARにふらっと現れた所、若いスタッフの子に覚えられておらず、入場料を取られかけたりすらしていた。本当にその辺の近所の兄ちゃんだった。パチンコ屋、飲み屋から出てくるおっちゃんで、休日のお父ちゃんだった。

酒、女、お金が好きな印象がある。なぜこの人に、hushpuppyのあの感情を掻きむしられようなメロディが書けるのか不思議で仕方がなかった。似たバンドも自分には思いつかない。

あるライブでの打ち上げの際、どんなバンドの影響が強いのか聞いた事があったが、タロウさんはニヤけながら「和風な感じだろ?」とだけ答えて、それで音楽の話は終わってしまった。

僕の前ではそんな感じで、いつも酒を飲んでデレっと笑っていたが、一度だけ自身の職業の医者について、「病気で弱ってる人間を食いもんにするような医者には絶対ならん」と真剣に話した事があった。hushpuppyの、あのMC時のダラけた感じと、シリアスな楽曲による緩急あるライブのスタイルは、この辺りから生まれて来ているだろうと僕は思っている。

バンドについては、タロウさんはよく、とにかく続ける事が大事、という事を言っていた。タロウさんらの世代が、結婚や子育ての生活中でバンドを辞めてゆく例をいくつも見てきたから思うのだろう。実際に、タロウさんや、同じくオリジナルメンバーでギターボーカルの大松さんがほぼ同時に子育て期に入った時も、ごくたまにながらもライブを行っていた。

しかしながら、その頃のhushpuppyのライブというのは、どうしてもその都度のブランクを感じずにはいられない演奏で、テンポは音源よりも遅く、はっきり言ってカッコよくはなかった。正直な所、続けるだけでは意味ないんじゃないのか?という反感に近い感想すら持って観ていた。

だがその時期から更に時期を経て、ベースのユウさんの子育ても落ち着いた頃くらいから徐々にライブを増やし始め、コロナ禍により世の中の活動そのものが自粛ムードになってしまうまでは、hushpuppyのライブはかつてのキレを取り戻しており、わずかながら新曲を作ったり、アルバムを作るとさえ言っていた。結局それが叶う事は無かった訳だが、彼らの「続ける事が大事」という意味はこういう事だったのだろうと、今ではとても納得している。


結局、僕とタロウさんが会ったのは、いつも誰かのライブの時だけだった。その時以外で遊んだ事は一度も無い。

だからわりと古くから知っていても、よく知っているとは言えない。

hushの中ではユウさんや、元ベースで現在は絵描きのカゴヤさんがたまに遊んでくれた。大松さんともライブ関係以外で会う事はほぼ無かった。対して、友人のバンドHAMKの荒瀬は(彼もまた死んでしまったが)、タロウさんや大松さんともよく飲みに誘われていたりして、僕は少しの嫉妬を感じたりもした。

大松さんは、常にふざけたような調子の人で、あまり素の性格を他人に見せない所があり、自分も似た部分があると思っているので、荒瀬とは気が合ったのだろうと推測しているのだが、僕とタロウさんの間には、やはり席一つ分くらいの距離があったように思う。あるいはずっと距離を測りかねていた、とも考えられる。それはタロウさんから自分への呼称が、オオクボ君、オオクボ、アツシ、となかなか固定されてなかった事からも窺い知れるのだ。

色々思い出したいが僕とタロウさんの関係はそんなものなのだろう。

あと一つ、思い出したくても思い出せない事がある。

3、4年くらい前のhushpuppyのライブでのMCで、ステージからタロウさんが何かを話した後、「オオクボ、お前ならわかるだろう?」と前列で観ている自分に同意を求めた事があった。

その時の僕は、急に振られ気の利いた返答も思い付かず、ニヒルを気取って「ふふっ」と頷くしかできなかったが、内心ではとても嬉しかった。勝手な判断だが、タロウさんに自分が認められているような気がしたからである。

実を言うと、誰にも言わなかったが僕は密かにthirsty chordsとhushpuppyでスプリットのアルバムを作りたい、という考えを温めていた。アルバムを作る、と言いながらも新曲が増える気配の無いhushと、僕自身が育児に忙しくなり活動があまりできなくなったthirstyでも、5曲ずつぐらいなら何とか捻り出せるのではないか、と勝手に妄想を膨らましていたのである。

そんな中、コロナ禍が世の中を覆い始め、そんな中、突然の訃報であった。

タロウさんの作ったライブハウスCROWBARの看板ドリンクは、中ジョッキに入った樽生ビールと、奇しくもコロナのボトルである。コロナはタロウさんが「絶対に店に入れると決めていた」と言っていたビールで、hushpuppyのTシャツのデザインにも、そのロゴを模したデザインが施してあったくらい、彼が愛した銘柄だった。


タロウさんの命日の翌日、CROWBARで予めテイクアウトしておいたコロナビールを持って墓参りに出掛けた。

「本当に全然面白く無いギャグですね」と、コロナを彼の墓前に供えて帰った。

家に帰り、一人自分もコロナを一本飲み干したが、つくづく面白く無い。

「オオクボ、お前ならわかるだろう?」

その前の言葉が、どうしても思い出せない。大切な言葉だったのかも知れないが、忘れてしまうような事なのだから、やはり大した事ではなかったのかも知れない。

しかしそもそも僕は、両親の命日さえも覚えていられないくらい、記憶力が無いのだ。

四十肩もれなく

少し前に40歳になった。
この1年以上、全くバンド活動をしなかった。1年以上、全くドラムに触れなかったのもバンドを始めて初めての事。
これらを記念して電子ドラムを買った。時は電子の時代。しかしながら、どうも電子は私のようなタイプのドラマーには不向きに思える。叩く的は狭いし、クリックは遅れる。
ともあれ、電子でもそれなりに演奏する事は楽しい。バンドは、早くしたいに決まってる。
さっき、これまた1年ぶりくらいにマット君から電話があって話した。

少し前に思い立つもためらい続けていた、音源未収録かつ未完成な状態の曲の練習テイクを、soundcoudにアップしました。
コロナ禍で頓挫したニューバンドのアカウントですが、パスワード失念でログインできなくなったthirsty chordsの曲も一緒にしてます。
音の悪さ、ミスしたまんまも気にしない。
人間50年、出し惜しみはしない。

https://m.soundcloud.com/user-222641508-525374481/tracks

 

鈍痛ハイボール

既に版元からはツイッター、noteにて告知されている事ですが、ここの文章が本になりました。経緯の詳細はそちらに記してあるし、私も本書のあとがきに少し触れているので、ここには書きません。
自分の本が出るからといって、私は勘違いはせず、調子に乗りサイン握手会及びスペシャルライブ等行う事もなく、粛々と発売開始となります。
コロナウィルスを怖れているワケでは全くないです。ただ、調子に乗っている、と思われる事だけは、なんとしても避けなくてはなりません。
私の胸にあるのは感謝、恥じらい、心配のみ。全てはfolks 、優柔不断ブックス安東氏の仕業であり、安東氏のおかげです。
長年に渡り、極少数の皆さまのお目を汚し続けてきた、持たざる者による、案の定のアンサクセス・ストーリーは、彼のアートワークが目薬の役割を果たし、見事「商品」として仕上がってります。
改めて、安心してお目汚し下さい。

大久保篤著「鈍痛ハイボール
130P 600円(税別)
優柔不断ブックスより2020年11月1日発売

info:
優柔不断ブックス
Twitter
https://mobile.twitter.com/flexi_books

note
https://note.com/flexibooks


若干数ですが私からも通販直販の予約可能ですので下記まで。
thirstychords@gmail.com


もしもの事、この本の在庫が安東くん、その他各取り扱い店からも、全て捌けてしまったようなその時は、私は調子に乗るでしょう!

 

父の日以降

72歳になる父親がレベル4の肺ガンである事がわかった。
人間はいつか死ぬものであって、親が子より先に死ぬ事は、順番通りであると言える。たまにこの順番が守られない場合があって、残された側は、より深い悲しみに暮れる。
なのでまあ、順番通りである。

父本人からガンである事を伝える電話があった当日は、こんな風に考えて、随分自分でもあっけらかんとしたもんだ、と思っていたのだが、翌日になると、時間差で深刻な気持ちが芽生え、インターネットで「肺ガン」についてあれこれ検索し、レベル4というのが最高値、という事をその時知った。普通5までじゃないのか、と憤った。
仕事中も、心の中に水が溜まっていくような息苦しさを感じた。

先月の父の日に、贈り物に地ビールと缶詰なんかをセットにして持って行ったのだが、その際ずっと咳をしており、私は「大丈夫か?コロナちゃうんか?」と、心配というよりも厄介な感じで言い放った。今思えば、コロナウィルスの感染くらいですんでいればどれほど良かったか、と思う。
電話があった三日後、仕事帰りに実家に立ち寄った。父の日に会った時より、元々細身の顔が更に痩せ、そのせいで目がギョロっとしたように見える。顔色は灰がかったような茶色で「ああ、これは長くないぞ」と覚悟できた。
病院によれば、もう手術はできる状態ではなく、抗がん剤か緩和ケアによる治療の2択になるとの事。父は、抗がん剤は使いたく無いので緩和ケアを受けるようになると思う、と言う。母も、抗がん剤はガン以外の細胞も攻撃してしまう、毒よ、と言う。私の両親は先入観を強く持つタチなので、ちゃんと調べてるのだろうか?と思う。
どうせもう治る事は厳しいので、辛い抗がん剤治療はせず、少しでも心体ともに楽に残りを生きられるようにという事である。あと西洋医学だけでなく、漢方や鍼灸などの東洋医学もどんものなのか興味があるので、その分野で県内では大きな病院にも、明日明後日ぐらいに行ってみるつもりらしい。

ところがその週末に再び様子を見に実家へ行くと、以前在った場所から移転していたらしく、新しい場所がわからなかったから諦めた、と言う。何で?と思った。実家には私の兄弟も一緒に住んでいるのがいるし、私の家も車で数分のところである。ネットで調べてもらうなり、連れて行ってもらったりすれば良いものを何故頼らないのか。老いた両親が末期ガンのために病院を探して見つからず帰ってくる姿を想像すると、実家とはどちらかというと希薄な関係をとっていた自分でも、胸が痛む。
とりあえずその日の午後の診察に間に合うように両親を自分の車に乗せて、その病院に連れて行った。特に漢方の相談がしたかったらしく、気休めぐらいにしかならないかもしれないが、大きな袋に入った煎じ薬を貰って帰った。帰りの車内で父から「行ってよかった。すっきりしたわ。ありがとう」と、とても感謝された。本当に何でもない事なのに。
家に帰ると6つ下の弟がいたので「お前も手伝える事あったらやれよ。頼むぞ」と普段なら言わないような事を言うと、それを聞いていた父が「その通り、総力戦やぞ」などと、横からまるで他人事みたいに言うので呆れてしまった。
別れ際に、私が父の日に贈った地ビール類を「せっかくやけど、もう飲めそうにないからそっちで飲んでくれ」と返された。それらはすぐに全部飲んでしまった。

 

メダカの学校

 

一月くらい前、子が近所からメダカを数匹もらって来た。
私はこれまでメダカなど飼ったことが無いので飼育方法はわからないが、妻の実家では常に飼っているので、教えてもらうことはできる。とりあえず余ってる睡蓮鉢をくれたので、あとはホームセンターで餌と水草を買い、玄関先にある柱の影になる所で飼い始めた。
いつも仕事から帰ると、なんとなく様子が気になり鉢を覗くが、警戒心が強いようで、すぐ水草の下に隠れてしまう。休日はだいたい私が餌をやるのだが、水面に撒いてもすぐには食べに来ず、じっと音も立てずに待っていると、しばらくしてようやく水草の影から姿を現し、恐々と食べている。
ペット屋の、人に慣れきった金魚や鯉みたいに、餌も無いのに指を水に近づけただけで口をぱくぱくさせながら群がってくる浅ましさに比べると、ずっと慎ましく、自分には好ましく思える。

その日、まだ陽のある時間帯に仕事から帰ってきて、やはり鉢のメダカを覗いてみると、いつも一目散に潜るか水草に隠れるはずが、一匹だけ水面を姿を見せたまま動かないものがおり、指でつついてもやはり動かず、どうやら死んでいるようだった。
とても小さいのでそのまま庭に捨ててしまおうとも思ったが、子の情操教育を考え、一緒にこのメダカのお墓を作ってやる事にした。
妻と子を玄関に呼び、メダカが死んでいる事を確認させると、この時、妻が水草に卵が産み付けてある事に気づいた。もしかすると、この死んだメダカは、この新しい命と引き換えに力尽きてしまったのだろうか。だとすれば美しい命の連続である。
ただ現実は残酷な所もあり、生まれた卵はこのまま同じ水中に入れておくと、大人のメダカに食べられてしまうおそれがあるらしいので、妻は卵を別容器に移して、そのついでに鉢の水も新しく替える事にした。すると、鉢の底からさらにメダカの死骸が四匹も見つかり、さらに小さなタニシみたいな巻貝も数匹出てきた。
グーグルで調べてみると、この巻貝は生物飼育の分野では「スネイル」と呼ばれていて、少しなら餌の食べ残しや糞を食べてくれたりして水中の掃除をしてくれるのだが、やはり大量発生するとその糞やら死骸で余計に水中を汚染する原因になるようだ。
私はとりあえず子と共に、庭のまだ背の低いシマトネリコの樹の下に、お墓のための穴を掘っていると、睡蓮鉢を掃除していた妻が「うわ、気持ち悪い」と声をあげた。どうやら一旦地面に置いていたスネイルを誤って踏んづけてしまったようである。私は「このぐらいならスネイルも居て良いんじゃないか。少しなら水をキレイにしてくれる、とも書いてある」と意見したのだが、妻は、一瞬だけ思案をするように、今自分が踏んだ跡の黒いかすれ線に目をやると「いえ、全部殺しましょう」と、決断を下した。
掘った穴に、死んだメダカ五匹と、生きてるか死んでるかわからないスネイル数匹を埋め、適当な黒い小石を墓標代わりに立てた。私は、こんなので情操教育になるのだろうか、と考えながら、形だけぱんぱんと手を叩いて拝むと、子も真似て、ぱんぱんと手を叩いた。

その夜のお膳は、昨日、友人宅から手土産に持たせてくれた釜揚げシラスである。それを炊きたての白い米の上に大量にかけて食べた。
そのおいしかったこと!

移設したお知らせ

bows 福田君が厚意によりthirsty chordsのバンドホームページ内の日記を移転してくれました。
なかなか更新は難しいですが、とりあえず去年10月より新しくバンドを始めてますのでその報告です。
thirsty chordsは自分以外のメンバーにも目出度く家族が増えた事などもあって、当面は休止を続ける事にしましたが、とりあえず曲は作っていたいという気持ちがまだ自分にあるようで、新しくバンドを始める事にしました。
実を言うとこの春先よりライブも誘われており、何とか曲数を間に合わせようとも考えていたのですが、現在のコロナ騒動により、自分やメンバーの家族の事を踏まえ、3月中はスタジオでの練習もやめる事にした為、ライブも断る事にしました。そのライブに合わせて事前にデモ音源を録音するつもりでしたが、その計画も頓挫です。
あまりに悔しい気持ちなので、深夜、私は車を走らせました。行き先は近所にある古墳群です。そこの空き地に車を停め、前にiPhoneで録音していた練習テイクをバックに、大声で歌いました。ここならコロナウィルスにうつったり、うつしたりする心配は無いと考えたのです。
こうして強行的にデモ音源を作りました。どうぞ、お耳汚し下さい。

https://m.soundcloud.com/user-222641508-525374481


当分ライブは予定はありませんが、ひとまず年内に正式な音源を出す事を目標に活動しております。
よろしくお願いします。


「MIDNIGHT HIGH 」

聴こえる
街のノイズ音
知らないはずのサビを歌って
吹き付ける風の生温さに
不安は無いのに
抗う
魅かれる
その磁石は狂い始める
もっと上手く嘘をつきたい
君を考えない

このまま
午前0時
目が冴えるのは思い出すから
点滅へ変わる信号機と
自動販売機が
照らし出す
君の影
罪はこの街になすりつけて
呆気ない夜が明ける頃
解けるパスワードを

忘れさせて
Midnight high
逸る気持ちに流されたい
優しい夢
見ないでいいから
今夜 Midnight high

忘れさせて
Midnight high
流行るリズムに流されない
優しい夢
見ないでいいから
今夜 Midnight high

もうこれ以上
泣かないでいいくらい全部
枯れてしまって

三連Q

7/13、14、15と連休。
私の会社では正月を除く唯一の3連休を、子と過ごすのを楽しみにしていたが、特に変わった事は何もしなかった。
午前中は自宅マンション近くを散歩。最近は暑いので、すぐ隣のスーパーマーケット内をうろつき、10時半ごろになるとイートインコーナーでオヤツを食べる。右手にはアンパンマンスティックパン、左手にはスポロンの二天一流である。
外でも遊ばせてやりたいが、天気もあまりよく無いので、午後からは連休中でも混まないと思われる、県南にある空きテナントだらけのショッピングモールに向かい車を走らせた。車内ではsamiamをかけた。
ここのキッズスペースは予想通り連休でも空いていた。キッズスペースの入り口にはwelcomeと書かれたアーチ状のバルーンのゲートがあり、その両脇には継ぎはぎだらけの、焼夷軍人のようなウサギとクマのバルーンが門番として立っている。穴だらけなのに、繋がれた管からは空気が送られ続けており、永遠に休む事なく立ち続けている。
子のお気に入りは、縦に割られて白眼を剥いたゾウの滑り台である。真っ赤に染まった象の内部を滑り降りて、二体の傷痍軍人に駆け寄り、頭をポンポンと叩いて労うと、再びゾウの滑り台に登る、その繰り返し。
家に帰ると、絵本を持ってきて、「まだ文字の読めない私にこれらを読み聞かせるように」と命じてくるので、読んでさしあげる。やはり絵本が圧倒的に多いのだが、少し前から、しばしば私の本棚から右手にdoll、左手にcomic cueの、何故か必ず同じ号を取り出して持ってくるようになった。これがサブカル女子、ってやつなのか。
「危険に対する怒りや恐怖が音楽に生々しく表れているんだ!」と一応、poison ideaのインタビュー記事などを読み聞かせるのだが、教育上どうなのかとも思う。
3連休中は、連れて行ったショッピングモールの違いはあっても、大体こんな感じでほぼ毎日同じように過ごした。毎晩、妻と子供の事で喧嘩もした。
私と妻は、同じぐらいこの子を愛している。