脳天唐竹割日記

去年の暮れ辺りから、天気が良い日には、度々妻の実家の裏山に入り、竹を切っている。今の自分の状況から考え、いい加減に奥方から「あなた仕事は?」と職探しに尻を叩かれるのが通常だろうが、この奥方は、率先して私を竹藪に連れてゆき、竹を切らせようとする。昼飯を持参して妻の実家へ行き、朝から陽が落ちるまで竹を伐採し続けば、夜、疲れて布団に潜り目を閉じると、目蓋裏には竹藪が焼き付いている。この場合自分は、労働、及び仕事をしている、と言っても、決して日本語としておかしくは無い。
おかしくは無いが、収入も無い。
そもそも人は何故、竹を切るのか?それは、竹が生えてくるからである。かつての日本において竹は、建築や生活用品の資材、または燃料として幅広く利用され、重宝されていた。云わばこの深い竹藪は、当時は油田と同じだったわけで、時代が時代なら、私は億万長者にも成り得た筈なのである。それが今では石油にとって代わられ、筍として食す以外用途は激減、お正月の門松も、竹馬や竹とんぼで遊ぶ子供たちも今では殆ど見かけなくなった。いつしか放置された竹林は竹藪となり、その恐るべき繁殖力は山の生態系、時に住居も破壊といった、竹害をもたらすようになったのである。

妻と二人、鋸を手に、一本一本竹を切ってゆく。とにかく減らさねばならんのは、家の日当たりを悪くしている直径1〜3cmぐらいの細い竹である。
エモノが良いのかズバズバと簡単に切れる。それでも作業はなかなかスムーズにはいかない。
一本を切り倒す度、その竹に、だらしない男女関係みたく、凭れたり絡みついたりして生えていた他の竹が、バランスを崩し私に覆い被さってくる。それを毎度かき分けながら切り進んで行かねばならない。
危険も付き物である。切った竹を、予め作っておいた集積場に持って行く時、足の裏に痛みが走る。何かを踏んだと確認して見れば、これまでに切り倒した所の竹が、5cm位残し鋭く尖っており、作業用の長靴を突き破っていた。妻が斜めに切っているのである。彼女は「堅いから女の力ではうまくかず、この切り口になる事がある」と言うが、私は「とにかく危険だから、できるだけ尖らせんように」と口頭で注意、藪を更に奥へ切り進むと、次の難敵が、私の前に現われる。
野生の薔薇である。その凶々しい棘だらけの茎がいたる所に伸びて竹に絡まり、行く手を阻むのである。裕福な人は邸宅の庭に鑑賞用だけでなく、防犯も兼ねて薔薇を植えている事があるようだが、極めて有効だと思った。今は花も無い、この曲がりぐねる悪魔のような姿を見ると、これ以上侵入する気が無くなる。それでも負けるわけにはいかない。茎を辿ってどうにか付け根を見つけ出し、丁寧に除去してゆく。何とか順調に作業は進みつつある。だがこれらを遥かに凌駕する、本当の恐怖はこれからであった。
戦慄。
膝丈くらいの長さの竹槍が、地面から天に向けて、幾つも仕掛けれているのを発見したのである。これはもしや、旧日本軍が本土決戦の為に備えたトラップの遺物であろうか。いや、それにしては竹が新しい、まるで今しがた切られたかのような切り口である。
そう、今しがた、妻が大量に作っているのである。私が、何でこんな事をしたのか、恐る恐る尋ねると、妻は「これだけ長めに残せば目に付きやすいから安全でしょ」どう、このアイデア?みたいな顔で答える。
確かに先程よりは目にはつく。だがこの足場の悪い山の斜面、もしこの竹槍の上に転倒した場合どうなるか。心臓を突き破ってその人は死ぬ。やっぱり先が尖っている。