マルナカにて

活動を休止した理由の一つに、自宅マンションから車で10分ほどの所にあるスーパーセンターマルナカが、改装のため一時閉鎖していた事が挙げられる。
私は、このマルナカの休憩スペースで歌詞を考える事が多い。つまり、マルナカが無ければ歌詞を書く事はできないという事である。
無職だった一年半は日々の大半をここで過ごした。この話をすると、近所の寿司屋の娘が「あそこには無料でお茶と水が飲める機械があったのに、それが撤去されたのは大久保さんのせい」と非難してきた。自分ような者が一日中茶を飲んだり、カップ麺に湯を注ぎいたりしていると、一般のお客様に迷惑、という事なのだろう。が、それは完全な言い掛かりで、私が無職となった頃にはその機械はもう無かった。
ただ、迷惑を掛けた覚えは無いが、確かに特に買い物をするでも無く、毎日のように午前中にはやってきて日暮れまで居座る、本来なら働き盛りであろうおっさんの姿は、あまり良い印象は持たれなかったかも知れない。

歌詞を書いていたり、本を読んだりしている時は、錯覚か誤魔化しにしても、何と無く教養が身についているような気分になったりもするのだが、なあんにもしてない事も多々あった。
そんな時の私は、窓際というか、ガラス張りの外向きの席に座り、そこから展望できる駐車場をじっと見下ろして過ごすのである。
いや、ただ見下ろしてたわけでは無かった。その眼には一種の異様な輝きがあったあったのかも知れない。

駐車場はこの1階だけでも、ざっと見て3、400台分ぐらいのスペースはありそうなのだが、その規模の割にショッピングセンターへの出入り口は一ヶ所ずつしかなく、場内は混雑防止の為、細かい順路の指示が走行通路に施されている。
ところが見ていると、人々は誰もが店内入り口に最も近い駐車区画に停めたいが為、少しそこから離れればまだまだいくらでも空きがあるにも関わらず、いつまでも入り口近くの区画をグルグル周っているのである。
そして一台分の空きがでると、彼等は一斉にそこを目指し、走行通路は斜めにショートカット、順路は逆走、非道い者は追い抜きまで行う始末で、場内は混沌を極めるのであった。
私は人々のエゴ丸出しの醜い争いを本当に悲しく、情け無い気持ちで見下ろすのである。
「私はこれまで30年以上、秩序と道徳を何よりも重んじて生きてきた。それをあいつらときたらどうだ。誰もが自分さえ良ければ良いと考える我利我利亡者ばかりだ。それなのに自分は無職。奴等の車を見ろ。車は資本主義社会における最も分かりやすいステータスだ。どれもピカピカに輝いている。高級な外国産車まである。他人を陥れて得た地位と金の結晶だ。比べて私の車はどうだ。もう10年以上乗っているアルト。雨が降れば、どこかから降り込んでくるのか車内はビショビショになるのだ」
時にはそのような事を呟きながら、一日中を外を眺めて過ごしたのである。

マルナカのリニューアルオープンとともに、私は歌詞作りを再開した。
リニューアル後のマルナカには、1階に広々としたイートインスペースが新設されており、水やお茶が無料で飲める機械も復活していた。非常に快適でよく利用していたのだが、今日行ってみると、早くも、お茶を出すボタンがシールを貼って押せなくなっており、飲む事ができなくなっていた。


「クルー・ジャパン」

塞がった耳を騒音が剥がして
現在の意識を保っている
疑う眼で見つめるだけの無駄な抵抗
頷いてる奴らの首に掛かって
気付かない

蟻がたかる習性みたいなモラル
誰一人
お前を知らないだろう

裏返った自分の声は聞こえないで
ミリ単位の狂いが許せないんだ
待ち焦がれた機会は今過ぎ去って
相殺したつもりの
善悪など曖昧

有り難がる純正品のモデル
誰一人
必要しない感情

この街から盛り場の灯が消え去るまで
「友達なら当たり前」って慰め合え