ある自販機オペレーターの話 1

今年の初め、自動販売機のオペレーターの仕事に就いた。前職のルート営業では、徳島市内中心部を5年間変わらずに担当していたので、今回の仕事では、西部の山の方か、南部の海の方を回りたいな、と考えていたが、結局、またもほぼ同じ、市内中心部ルートの担当になってしまった。
私はもっと田舎町の自動販売機に飲み物を補充したかった。夜、幹線道路沿いにぽつんとある、すでにシャッターの降りた個人商店前に置かれた自動販売機の灯りに、蛾とかカメムシとかみたいな性分の自分は、ついつい引き寄せられてしまうのだ。
残念ながらその想いは叶うことは無く、おそらく2、3年はエリアも変わる事は無いだろうが、この街中でも、しばらく担当をしていると、愛着の芽生えた自動販売機もでてくるものである。
私の担当で最も気に入っているロケーションは、住吉神社の鳥居横に置かれた自動販売機である。
人類の歴史上、初めて登場した自動販売機は紀元前200年以上前のエジプトの神殿前に置かれた、硬貨を入れた重みで聖水が出てくる装置だとされているが、これは信仰と科学、相反する二つが同時にして文明を発展させてきたという事実そのものであり、自分はこの住吉神社自動販売機に、人間の本質は古代から現代まで何も変わっていない、という事を思うのである。
住宅街に囲まれたこの神社は、参拝者が意外な程多く、売り上げもなかなかのものである。境内は今でも子供達の遊び場になっているようで、私が補充のため自販機の扉を開けると、彼らは好奇心から今までの遊びを中断し、こちらへ集まって来る事もある。「初めて見た」「ちょっとした社会見学やな」など興奮気味に話すのがほとんどの中、「俺はこんなん何回も見た」と物知り顏のヤツも、一人は必ずいる。
私は信仰心などというものは、自分ではほとんど意識はしていないが、やはり神仏に対する畏れのようなものは、どこか心の奥深くの所にはあるようで、この自販機に対しては、つい他よりも清掃、メンテナンスに時間を費やしてしまう。そうしているうち、私にもこの自販機に対する情も、信仰心と共に、自ずと生まれて来てしまうものである。
にもかかわらず先日、よりによって、この自販機から飲み物を買おうとした男性から、お金が詰まって出てこない、というクレームの電話がかかってきたのだ。
にわかには信じられ無かった。あれ程自分が心を込め、手をかけ、ましてや神の見護る下に置かれた自販機に限って、お金が詰まるなんてあり得ない、と思ったのである。
急いで駆けつけ、コインの投入口を確認した所なんと、明らかに故意と思われる、一円玉、紙くず、葉っぱなどが、ぎゅうぎゅうに詰め込まれていたのだ。
中でも驚いたのはタバコを吸い終えた後のフイルターの部分を、どうすればこんなになるのか、まるで三河一色海老せんべいの様に薄く伸ばして詰め込まれていた事であり、私はこれを見て、この神社裏で度々見かけたタバコを吹かせている中学生達を思い出した。
証拠もなく、犯人は彼らであると決め付けてしまうのはいけない。が、もしもこの行為が彼らの仕業であるならば、この努力、才能が、もし三河一色海老せんべい職人となる為に正しく向けられたなら、一つの伝統食文化も、向こう数十年は途絶える事は無いのにと、悔やまれてならない。