ある自販機オペレーターの話 2

私は涙目で、コインの通る管から詰め込まれたものと詰まったお金をほじくり出していると、後ろから一人の老人男性が「お茶を買わせてもらえんか」と声をかけてきた。私は苛立っており「茶くらい帰って婆さんに淹れてもらえ、ほんで縁側で飲んどれ」と思ったが、無下にもできず、かといって今はコインが機械を通る状態では無いので、手渡しで代金の130円を受け取り、機械の内部操作でお茶を取り出して、老人に渡した。
私はまだこの様なイレギュラーな作業には慣れておらず、更に途中、じいさんの出現もあって、随分時間をかけようやく直すことができた。
もうこの日に回るローテーションは無茶苦茶である。唯一の救いは、クレームのあった男性から「詰まったお金は神社のお賽銭箱に入れておいて」と言ってくれていた事で、わざわざ返金に行く手間はかからない事である。
約束通り、私は詰まっていた小銭を全て賽銭箱に投げ入れた。手も打たず、鐘も鳴らさず、何も願わずただ投げ入れた。
虚しかった。
他人のお金だから何も願わ無くて当然だろが、という指摘もあるだろうが、それだけの虚しさでは無い。
あのタバコを吸っていた少年達の心には、既に信仰心などは存在しない。そして自分も、あれ程に心を込め、手をかけてきた自販機にトラブルを起こされ、裏切られた気持ちになり、もはや、信じる心を失いつつあるのだ。
人々の心から信仰が無くなった時、神はもう存在しない。そう、21世紀の現代に、神などはいないのである。ならばもう、こんな場所の自販機に時間をかけている場合ではない。さっさと作業を済ませて次のもっと自販機に向かおうと思ったが、最後に自販機内の在庫数と売り上げを合わせるため、先ほどの老人から手渡しでもらったお金でお茶を買い、そのお茶を再び自販機に入れ直すという作業を忘れてはいけない。
さっきの130円を入れてお茶のボタンを押す。ゴトンと、ペットボトル入りのお茶が落ちる音と共に、ピピィッという電子音が鳴り響いた。もう一本プレゼントを意味する、当たりの音である。
もしやあのおじいさん、と思い、私は辺りを見回したが、既にその老紳士の姿はどこにも無く、ただ、鳥居をくぐり抜けて吹く風が、秋の始まりを告げているだけだった。