欲望の男

中島らもが、ビートたけしの著書を読むと、テレビ番組で、タレントが食べるシーンをよく映しているが、食べるという行為は排泄行為とも同じくらい汚ないように思う、と書いてあり、全く同感に思った、と云う内容を書いてあった本を、私が読んだ。
これは、食べる行為も排泄行為も、どちらも全体「種」の保存の為では無く、自分自身「個」の生命維持の為に営む行為なので、どうしても卑しさはある、という考えからきているのかと思う。

確かに、グルメ番組やバラエティ番組などで、タレントが大袈裟なコメントしたり、尋常じゃ無い量の食事をしている場面は、私も、こんなん誰が見たがってるのか、と思うし、何より、私は中島らもビートたけしを好きで、これ程の二人がそう思うのであれば、自分もそういう考えであった方が、何かカッコ良いような気がする。

しかしながら私は一方で、テレビ番組「吉田類の酒場放浪記」で吉田さんが、端っこの狭い席で一般の酔っ払い客に混じり乾杯する場面や、「ローカル路線バス乗り継ぎの旅」での、その時に立ち寄れた適当な店で摂る食事の場面は、やっぱり好きで、考えてみれば結構楽しんで見ている。
また、私は各地の郷土料理が載った本や、パンフレットを読むのが好きだし、最近は内田百閒の食に関する随筆集「御馳走貼」をとても面白く読んだ。

という具合で、私は寧ろ、食の描写を好む人間であると言える。
そして、その事を冒頭の考えに当てはめれば、私は食事シーン大好き人間、イコール、排泄シーン大好き変態、という計算式が成り立ってしまい、この事に大変ショックを受けた。
今まで自覚が無かっただけで、潜在意識には、そのような性癖が自分にあったと云う事になる。
いや、そんな筈は無い。絶対認める訳にはいかないのだが、幾ら思案をしても、この「食欲=排泄欲=性欲」という方程式を否定できるだけの証拠が、どうも見つからない。
それ以来、私は潜在的に持っているかもしれない「変態」の十字架を背負いながら、これまでの人生を歩んできた。

だが先日、ついにこの方程式を否定できる出来事があった。
私が友人Kの家に遊びに行った時の事である。
私はその日、夕飯を食べておらず、夜も遅くなり腹が減ってきた。Kの家の周りにはこの時間まで開いているスーパーは無く、コンビニも遠い。
そこで私は、我ながら厚かましいとは思いながらも、テレビゲームに一人興じているKに、何か食べる物は無いか、腹が減っていけない、という旨を伝えると、彼は、冷蔵庫にウドンと卵がある、鍋も貸すから勝手に鍋焼きウドンでも作って食え、と言ってくれた。
有難く、早速私は鍋焼きうどんを作り、なかなか美味そうな出来だ、さあ食おう、とした所、Kはさっきまで夢中になっていたテレビゲームを中断し、何を思ったか、私が食事を始めようとする前で、今度はアダルトビデオ鑑賞を始めたのである。
私は以前アメリカに行った際、他の日本人が苦しむアメリカンサイズのボリュームある食事に順応し、本場の人間さえも驚く食欲を見せた事があり、更に言えば、今の自分は大変に空腹である。
それ程、食欲面では強靭なる精神を持っていた筈であるのに、この部屋に響く男優さんの呼吸と女優さんの絶叫、その行為の映像に、私は気分が悪くなり、すっかり食う気を失せてしまったのである。
その時私は、正に今、自分にとって食欲と性欲はイコールでは無い、つまり食欲≠性欲であり、同時に私は排泄欲≠性欲のノーマルな人間である事がここに証明された。

安心、確認、良かった!と、思っているとKは「あら、食わんの?なら俺が食うわ」と私から鍋焼きうどんを取り上げ、テレビに映る男女の絡み合う映像を、何かスポーツでも見ている感じの余裕さで鑑賞しつつ、美味そうに麺、汁を啜っていた。
こんな鬼畜とは一時も早く縁を切りたい、と思った。