記憶のエピソード

11年前、年が明けて数日後だったと思う。
徳島しては珍しく雪の降る深夜、私は新しいバンドを始めるべく、曲のアイデアを持って、当時まだ隣の市で一人暮らしをしていたHAMKのGt&Voである荒瀬のアパートへ、オートバイを走らせた。
寒かった。アパートに着くと、2階の共用廊下には少し雪が積もっており、奥の荒瀬の部屋まで、彼のものと思われる足跡が続いていた。

その頃の荒瀬とは、ライブの共演時に会う以外、たまに何人かのバンド友達で集まって遊ぶ事がある、くらいのもので、二人だけで会ったのはこの時が初めてだったように思う。その程度の間柄である荒瀬に、新しいバンドを始める準備の手伝いを頼んだのは、音楽的なバックグラウンドが比較的近かった事もあるが、簡易なMTR(音楽用の録音機です)を所有して扱えた事が一番大きな理由だった。
その夜に、既に考えてあった3曲のコード進行を伝えて、それからまた何日か経った夜までに、ある程度ギターとベースのアレンジを考えてもらっておく、としてあった。
2回目に会った夜、この3曲の中にあった「記憶喪失」という曲の彼のアレンジに関して、私が「せっかく考えてくれたけど、このイントロはこうしてくれ」と修正を出すと、彼はきっぱり「嫌です」と断ったのである。
私は、彼はメンバーじゃなくサポートだし、年下だし、曲作りに関して言う通りにしてれるのが当然、と思っていた所が、この即答には、あれ、と思った。つい私は気圧されて「じゃ、このままで」としてしまったのである。しかしこの頑固さは彼の音楽的気質の高さだと思うようになり、以後この曲は殆ど当時と変わる事なく、現在でも演奏する事になった。
以来これがキッカケで、荒瀬とは普段から二人でもよく遊ぶようになった。酒を飲んだり、釣りに付き合ったり、彼の釣った魚の煮魚で酒を飲んだりした。
彼はRANCIDのラーズ・フレデリクセンが織田無道にソックリだ、というので、ラーズの声色で除霊をする、というギャグをしてくれて、私はそれが大好きで、腹がよじれるくらいに笑った。
私は当時、早朝からのバイトをしており、荒瀬は深夜のバイトをしていた為、私達の生きる時間は、実は真逆に近かった。私が彼の部屋で殆ど眠っているだけ、なんて事もよくあったと思う。

荒瀬は一昨年の秋の終わり、突然の心肺停止により、眠ったままこの世を去ってしまった。30歳だった。
間違いだろうと思ったが、間違いでは無かった。

去年、彼の初盆で、友人達と一緒に墓参りに行き、その後、彼の家の仏壇にも線香をあげに行った。県外からの友人の中には、葬式に来る事ができなかった者もいて、神妙に線香をあげ、鈴を鳴らしていた。鈴の音だけが高く響き、余計に静けさを感させるようだった。
ところが私の順番で、線香をあげ、鈴を鳴らす際、私は神妙のあまり、半球型の鈴を支える支柱付近を叩いしまい、ガコっという鈍い音しか鳴らず、家族、友人一同から突っ込みを受けてしまった。こんな事だから、自分は20年やってもドラムが下手なのだ、と思い、情け無かった。
だが言い訳では無いが、彼は爆笑してくれたんじゃないか、とも思う。

荒瀬との思い出は10年程で、彼よりも付き合いの長い友人は他にもいる。
それでも誰との思い出よりも多く思えるのは、荒瀬との10年はバンド活動での10年だからだろう。
彼が残した音楽は、勿論、彼がずっとフロントとしてやってきたHAMKが一番多いが、その次に多いのが自分と一緒にやったバンドでの楽曲群で、thirsty chordsで5曲、leewayで11曲の計16曲を録音した。
今回発表する我々の音源にはその中から2007年に録音した荒瀬時代の曲を2曲再収録した。そして今作の1曲目に収めた「エイトセンチメートルライトニング」と言う曲は、彼がいつかカヴァーをしたいと言って、その頃聴かせてくれたあるJ-POPソングをヒントに、横取りに近い形で作った曲である。
私は錯覚でも良いので、もう一度彼と共に一つの音源作品を作りたかった。

荒瀬との事は文章にまとめるのが難しい。
とにかく楽しい思い出が多い。思い出は美化されていく、という。
11年前のあの日、本当に積もる程の雪が降って、そんな中、私はバイクを走らせたりしたのだろうか。11年前なら酔って運転してたのではないだろうか。
それにしても自分の記憶には、共用廊下の雪に残った彼の足跡が、今もはっきりと残っているのである。